よるのおわり

日々を愛でる

さみしさ

ずっと小さい頃から,さみしさなんて圧迫して弾圧してしかるべきものと思って,そうして適当なあきらめをつづけてきて,もうそろそろいいかなと思って顔をあげてみても,ある種のさみしさはさみしさであることをやめていたものの,まだやっぱり,別なさみしさは形を変えてそこに在りつづけていたのでした.

それだけでなくて,気づかぬうちに,敵はいつの間にか内側に入り込んでいて,神経を侵した虫歯があるときから痛みを感じさせなくなるように,半分は自覚しながらも,やっぱりなんだか大きなぐじゃぐじゃしたものが自分の一部として広がっていたのでした.

しかし,よく耳をすませてみると,さみしさというのは,いってみればBGMみたいなものだったのですね.決して止まることはなくて,でもそれにあわせてステップを踏んだり,私には難しいけれど我を忘れて踊り明かしたりすることもできるような.そのことに,やっと気づいて,あるいはやっと目を向ける気になって,さてどうやってさみしさと和解していったものか,そう『ゲド戦記』みたいに,とそんなことを考えているような,もう二十数回目の誕生日だったのでした.