よるのおわり

日々を愛でる

フェリーの歌

フェリーのなかでかかっていたBGMの音が大きくなって,ちょっとうるさいなと思っていた.だけれどすぐに気がつく.スピーカーから流れる既製品の音楽とは違う雰囲気.向こうのほうに目をやると,どうやらすこしへこんだブースのところで,生演奏が始まっているらしい

紫色のやわらかい光がラウンジに漏れ出ていて,のびやかな女の人の声が響いている.座っているソファーから直接は見えないけれど,あそこで歌っている.目の前のソファーの乗客たちは,そのブースを眺めている.1-2曲終わって,「Englishman in New York」がはじまる.好きな歌.途中から思わず立ち上がって,そちらのほうを見に行ってしまう.

ときどき声が交じるなと思っていたけれど,たしかに,スキンヘッドの男の人が横でギターをひいていた.女の人は,歌いながら電子ピアノを気持ちよさそうに弾く.乗客の大部分は無関心なようでいて,でもしっかりそちらに注目していることが雰囲気でよくわかる.なんというか,ふたりは本当に楽しそうに歌ったり演奏したりしていて,とってもあたたかい空気が音といっしょに広がっていく.

ブースの前を通る人はリズムをとりながら足を運び,ときには親指を立てて満足な気持を表現したりする.「イパネマの娘」の最中には,3歳と5歳くらいの兄妹が楽しそうに踊りはじめて,両親がそれを見守っている.最後の「イエスタデイ」では,ビールを飲んでいたおじさんがつぶやくように「♪yesterday」と歌にあわせて口ずさむ.演奏が終わると,そこかしこでぽつりぽつりと静かに拍手が響く.

演奏の合間には静寂が訪れ,バーのカウンターに吊り下げられたたくさんのシャンパングラスが船の揺れに合わせてシャラシャラと音を立てているのが聞こえるようになる.最後の演奏が終わって船内のBGMがふたたび始まると,なんだか幸せな夢が覚めてしまったような気がした.