よるのおわり

日々を愛でる

ヤンソン短編集

トーベ・ヤンソンの全集を読んでいて、これは前に読んだことがある……という短編にいくつも出会った。調べたら2016年11月に『トーベ・ヤンソン短編集 黒と白』、2017年12月に『トーベ・ヤンソン短編集』を文庫で読んでいた。話の筋はほとんど忘れていて、同じ物語を人生のなかで何度も楽しめるすばらしい性質だなと楽観する。
せっかくなので、今と昔で物語に対する感じ方がどう違うかなと、記録をとってみた。気に入った箇所には線を引いたりするのだけれど、そういう部分がほとんど同じだったのはおもしろい。文庫は2冊、ハードカバーの全集は3冊に分かれていて、物語の配列などもけっこう変わっており、本そのものに対する印象はけっこう違った。たとえば全集は、『軽い手荷物の旅』『聴く女』『クララからの手紙』の順に、物語が高度に削ぎ落とされて抽象化していき、だんだん読みづらくなっていく。文庫の方では読みやすい物語がセレクトされていて、そういう印象はあまり抱かなかった。
短編では特に、ヤンソンの作品はぎりぎりまで削ぎ落とされて切り詰められており、読者は詳しい背景や人物の過去がわからないままに、多くを推論と推定で埋めて物語を読むことになる。多くを語らない文体で、多くを語らない内向的な人たちの、ままならず、しかしどこかほっとするような暖かさのある物語。
以下に、今も昔も気に入った短編を。

「発破」は、発破職人ノルドマンの息子ホルゲルが、父親の泊まりの仕事についていき、父親とその同僚の大の男たちの仕事ぶりを観察する話。荒れた海と、そのなかに立つ小さな小屋の描写がとても好き。

夕方はもっと愉しくなった。ランプが机の上で燃え、みんなでソーセージとポテトを食べ、ビールを飲む。ヴェクストレムが隙間風が這いこむ窓に防水布を掛けたので、部屋はどんどん暖かくなり、ずんずん縮んでいく。逆にノルドマンとヴェクストレムの嵩は増える一方で、大きくなりすぎて天井に届きそうだ。 ---(中略)--- 外では海が唸り声をあげ、島と小屋と彼ら三人を囲いこみ、やがて深い夜が訪れた。
翌朝六時、風はまだ吹いていたが出発することになった。小屋は冷えきっている。少年はキルトにくるまって二人の動きを眼で追う。机の上に魔法瓶があり、二人は立ったまま飲み、カップをしまい、片づけはじめた。ランプに照らされて大きな影が壁の上を前に後ろにと動く。少年は服を着て、上衣と帽子を釘からとる。ヴェクストレムは防水布をはずし、しばらく窓の下枠に両手をついて風を見た。まだ暗く、波がたえまなく轟きわたる。

「リス」は、無人島での、ヤンソンを模したと思しき女性と、リスの話。人嫌いのための最高の環境と孤独の退屈さの葛藤が、島に忍び込んだリスの上で膨らむ強迫観念となってスパークする。

翌日、彼女は起きるまいと決意する。苦々しく傲慢な決意だった。もう二度と起きるまいという決意のほかは頭にない。変わりなく穏やかに降りしきる霧雨の一日。この手の雨はいつまでも際限なく降りかねない。悪くない、わたしは雨が好きだ。厚地のカーテンの襞、どこまでも降りやまぬ雨がもたらす新たなる果てしなさ、トタン屋根を撫でるように叩きつづけるかそけき音。たりないものは数時間もかけて部屋の中を移ってゆく陽光――窓の下枠からマットに移動し、揺り椅子の上で午後に突入し、非難するかのように真っ赤に焼けたストーヴの上で消失する――太陽の光である。今日は額面どおりに純然たる灰色だ。時間の存在しない名もなき一日、こんな日は数に入らない。

「植物園」では、植物園のベンチの常連となった「おじさん」が、突如現れたベンチの競合者とつかずとも離れずの関係になる。競合者ヨセフソンの体調が悪いと聞いておじさんは見舞いに行き、草原の野原を守った話と、草原の大雨の洪水の話をしようとする。

「黒と白」では、挿絵作家が地下室の沈んでいく別荘に閉じこもって、陰鬱な黒の世界観をだんだんと完成させていく。屈託がなく明るく有能なデザイナーの妻 (白) の裏ですこし窮屈な思いをしながらも、はじめての大きな仕事のためにうらぶれた別荘にこもって、「黒=闇」を我がものとしていくさま。表現という仕事における確かな手応えと自信。

引用した箇所は、今も昔も線を引いていたところ。ほかにもあったけれど一番印象的なところを。