よるのおわり

日々を愛でる

文字によって知る

ひさびさに出勤ができるようになったので、午前中だけ職場へ。自転車に乗るときにはもはやレギンスも長袖も必要なくなっており、季節の移り変わりを感じる。人のいないひさびさの職場ではなにやら気が散ってしまい、慣れた家のほうが集中できるようになっていることに気づいた。
集中力が回復しないまま帰宅。帰り道でベーグルを補充。家でもあまり仕事はできず、翌日からのToDoリストをまとめて、簡単なメールの返信などをこなす。しかたないので食材の買い出しに行き、普段は買わない冷凍食品などにも手を出し、帰ってきてからはおかずをわしわしと作って、マレー語の勉強を進めた。

さて、本題。こういう、うまくいかないなんでもない平凡な日のことをここに書こうと思いながら、わたし自身がそういう他人の記録を読むのが好きなのだと気づいたのだった。
会ったこともない人びとの「なんでもない」日々の記録が好きで、そういう文章を読んでいると妙に落ち着いてくる。別な人生の可能性を目の前に見ているような、いや違うかな、自分はひとりだけどひとりではないと安心するような。とはいえ誰の文章でもいいわけでなくて、好きな記録とそうでない記録の差は確実に存在する。どういうところに違いがあるのだろう。
文字によって、そうした文章を綴りつづける人たちのことを、よく知っているような気になってしまうけれど、ある面では確かに、おしゃべりをするようなあいだがらの他人よりはよく知っており、しかし別な面では、たとえそうした人たちと実際に会うことがあっても、対面では話がとんとはずまなかったりするのだという気がしている。
どちらが良いとか悪いとかそういう話ではなくて、文字を通して、会ったことのない誰かのことを、特定の側面でだけよく知る(と錯覚する)ことができるという点で、すばらしいことだとわたしは思う。対面しておしゃべりをすることだけが、誰か人のことを知る通り道ではないのだ。