よるのおわり

日々を愛でる

人間が死ぬということ

日曜に祖母の訃報があった。もう数年前から施設に入っており、言葉を介したコミュニケーションはだいぶ難しくなっていた。死因はわからなかったとのことだけれど、祖母の状況を考えると、いつそうした知らせが入ってもおかしくはなかったと思った。

通夜と葬式で祖母の顔を見ても涙は流れず、人はいつしか死ぬのであって、こういうときの別れの言葉も「またね」がふさわしいのではないかと思ったりもした。自身もいつかは死んで、同じ (と一般的には信じられている) ところにいく。祖母には小さい頃からずっとお世話になってきたけれど、言葉による意思疎通が難しくなってきたころから、自分のなかですでに祖母は遠くに行ってしまっていた。年齢すら知らなかった。人間が「死ぬ」ということは、生命活動の停止をもってなされるのか、社会活動の消滅をもってなされるのかと、考えていた。こんなことを考えてしまう自分は冷たい人間なのだろうか……と思ったけれど、その悩みすら利己的なものなので、そら恐ろしい。

出棺の際には細長い棺の内部を花で満たした。顔のまわりにきれいなお花をたくさん入れてあげてください、と葬儀会社の人は言っていた。みながそちらに集まっていくなか、足の先に入れてある裁縫箱に花を手向けた (祖母は背が低く、寝たきりになってさらに縮んだ気がした)。一般に信じられている「どこか」に着いたときに、裁縫箱もしっかりと一緒であるように。おそらくは同じ職人気質をもった孫からのせめてもの配慮である。

蓋が閉められるとき、私は心のなかで遠慮がちに「またね」とつぶやいた。