よるのおわり

日々を愛でる

2017年末

年越しは普段の日常以上に、落ち着いた場所でゆったりすごしたい。それがなんの因果か、小さな夢の国みたいなところに日付が変わるまで過ごすことになった。なんでも、23時から盛大な花火が上がり、園内で開催されているクリスマスマーケットも大晦日で最後とのこと。

20時に家を出て、一駅歩いて電車に乗る。遠くのほうや近くでも、バラバラ花火が上がっているのが見える。ポンポンという音もかしこに反響する。電車のなかにいたって、聞こえてしまうのだ。日が暮れる頃からあちこちで花火があがっていて、夜中に近づくにつれてますます増えていくみたい。


夢の国では本当に夢の国のようなイルミネーションが輝いており、古き良き遊園地の気配を存分に漂わせていた。頭上すれすれを通るジェットコースター、異国風の飾り付けをした一画、射的、競馬、綿あめにポップコーン、メリーゴーランド。大人たちはビールやグロッグを片手に、子供たちはきれいな飴やいい匂いのするワッフル。レストランのなかではしっかり決めた若い男性が、連れの女性とデートだろうか。

最近の日々の中では格段に暖かい夜とはいえ、だんだん冷えてくる。屋内でしばし暖を取る。席取りが熾烈。そうして、22:45くらいになると人々は池の周りの欄干なんかに集まり始める。このあたりが花火見学のベストスポットなのだろうか。

23時。街中でポンポン上がっていたのよりも明らかに格上の大きい打ち上げ花火が始まる。絶え間なく夜空が明るく染まって、周りの見物客たちはスマフォを手に写真を撮ったり、ぽかんと見とれていたり。肩車された子供は大興奮。重低音も体に響く。そうして最後の花火が上がって、拍手が起こって、時計を見たらまだ23:10。すごいものだな、まったく。遊園地の外の広場で上がっている花火はまだ続いているので、そちらを見に出口へ急ぐ。


街中では、人びとがごくごくカジュアルに、大きな打ち上げ花火をあげている。筒を手に持ち、あるいは地面に置いてばばっと逃げて、そこかしこでぼんぼんやっている。遠くから見えたり聞こえたりしていたくらいだから、けっこう大きい。暴発したり、筒が倒れたりしたら、重症のけが人くらい出そうなものである。

特に市庁舎の前の広場では絶え間なく花火があがっていて、歩行者天国になった道を歩く人びともそちらのほうに向かっていく。0時が近づくにつれ花火の打ち上がる頻度があがり、日付が変わる瞬間には街の中が煙でもうもうとして目が痛いくらい。こちらのほうは、時間がたっても一向に止む気配がなく、10分経っても変わらず花火があがっている。

いつまでも見ていても仕方ないので、駅のほうに向かって歩くけれど、あっちでもこっちでも花火はつづいており、また、パーティから出てきたと思しきおしゃれをした若い男女の姿も目立つ。電車の中でも、変わらず花火の音が響き、夜空のあちこちに火が見えた。本当に朝まで花火をあげつづけるのではなかろうか…。


だいぶ冷えていたので、家に帰って、コーヒーの残りを飲み干し、熱いシャワーを浴び、暖かくして朝までぐっすり眠った。見た夢はおぼえていない。

2017年に読んでおもしろかった本

今年も今年でほとんど本を読めなかったけれど,すてきな本にはいくつも出逢った.これを見返して改めて思ったけれど,最近は,静かな物語が好きな時期なのかもしれない.


武田百合子 『遊覧日記』
ひと昔前の東京や京都を歩いているような気分になる.温かさと冷酷さ (と言っていいのかよくわからないけれど…) を兼ね備えた百合子さんの視点から世の中を追視できる,覗き見のようなわくわく感がある.私もこんなふうに世の中を歩けたらいいなと思う.


トーベ・ヤンソン (冨原眞弓 編訳) 『トーべ・ヤンソン短篇集』
居心地の良い居場所や自然や印象的な情景に包まれて,内向的で,ちょっと暗いユーモアに満ちた,ヤンソンの良さが存分に現れている.「リス」なんかもう最高だと思う.昨年の『誠実な詐欺師』につづいて,これらの短篇を読んで確信したのだけれど,わたしはヤンソンの小説 (と冨原さんの翻訳) が大好きだ.2018年には全集を読みたいなと思う.

悪くない,わたしは雨が好きだ.厚地のカーテンの襞,どこまでも降りやまぬ雨がもたらすあらたなる果てしなさ,トタン屋根をなでるように叩くかそけき音.たりないものは数時間もかけて部屋を移ってゆく陽光―窓の下枠からマットに移動し,午後にゆり椅子の上に侵入し,非難するかのように真っ赤に焼けたストーヴの覆いの上で消失する―あの太陽の光である.今日は額面どおりに純然たる灰色だ.時間も存在しない名もなき一日.こんな日は数に入らない.
(「リス」)


森永博志 『自由でいるための仕事術』
同様の生き方術とか仕事術の書籍に比べて,これは群を抜いている.その理由はおそらく,ひとつには,取り上げられている人たちが本物であるということと,インタビュアーが鋭いことがあるのではないかしらん.社会の中に,いかに自分の技術やビジョンを位置づけて,そこから金銭と交換可能な価値を生み出すシステムを構築していくか? 現代の大量生産大量消費のなかで,大切になってくるものは何なのか? 得られるものは多い.


ヴァージニア・ウルフ (御興哲也 訳) 『灯台へ
静かな物語.人の心理や会話の描写が流れるように移り変わって,山場もない代わりに,気づけば,物語の中の時も静かに流れ去っている.前半と後半の移り変わりの部分,時間が一気に流れるところを,別荘の屋敷を舞台に,夜会の後にみんなが寝静まる場面から始めて,屋敷の中を流れる隙間風のようにさらさらと書き出しているところ,すごいと思った.


古波蔵保好 『料理沖縄物語』
与那原恵 『わたぶんぶん: わたしの「料理沖縄物語」』
沖縄料理を通して,昭和や平成の沖縄の習俗,戦争との関わり,復興やその先などについて話が広がっていく.沖縄に暮していると,ああ,あれのことね…とか,これってそういうことなのね!という驚きがたくさんあって,楽しみながら読み進められる.古波蔵保好与那原恵さんの「おじさん」にあたる姻族で,『わたぶんぶん』のほうには,一族の歴史もストーリーにからまってくる.料理を通じて,新旧ふたつの沖縄を,それぞれから読み取れる.


林芙美子 『放浪記』
その日暮らしの圧倒的な焦燥感,その半面にある生活への愛情,性欲,文筆の仕事をものにしたいという野望.そういういろいろの感情が,脈絡なく綴られる実生活の断片的なイメージから力強くたちのぼってくる.これを読んでいたのはちょっと落ち込んでいたときで,「ああ…自分まだまだいける…」と勇気づけられたのだった.


ジャネット・ウィンターソン (岸本佐知子 訳) 『灯台守の話』
すごく良かった.静かな孤独が,悲しみや喜びのなかに淡々と流れるさま.人と人の生きざまが響き合う様子.バベル・ダークは私の中に生きていて,その存在感が,読んでいる私の肝を冷やし,心臓をきゅっと縮み上がらせる.悲しいまでのスコットランド(?)の冷たい寂寞感の描写.その中に浮かび上がる灯台と,ピューとシルバーとドッグ・ジムの闇のなかでの暖かな生活.
そして,「語る者」が転換する場面では鳥肌が立つ.全編を通して,誰が誰に,この話を物語っているだろう.それを想像するのも楽しい.


マルクス・アウレーリウス (神谷美恵子 訳) 『自省録』
すべてのものはうつろいゆき,何事も永遠には決して残らぬこと (それゆえ名声ははかなく,死はおそるるべきものではない),外界に起こっていることと自身の判断や認識は独立のもので,後者を前者から切り離して理性のコントロール下に置くことがいかに重要であるか (期待通りに動かない人や物事に心をいらいらさせない),ということ.何度も読み返したいと思ったはじめての本.
参考: この自伝がすごい/よく生きるためのリベラルアーツ書10冊|読書猿Classic: between / beyond readers


スチュアート・ダイベック (柴田元幸 訳) 『シカゴ育ち』
なんだかすごくいい.それぞれの短編がそれぞれに個性を放っていて,しかし全体として,荒廃だったり,多民族性だったり,人びとの細かな日常をみつめることだったり,すこしの幻想的な光景だったり,そうした統一感がある.そして,そうした人間に彩られる,シカゴという街の圧倒的な存在感! もしシカゴに行くことがあったりして,カリフォルニア通りのあたりをふらふら歩いていたら,ひょっこりマニーとエディに出くわしてもおかしくないと思わせるような,そんな力があった.いつまでも読んでいたい物語ばかりだった.

2017年末

年末年始だけは (あるいはそれとお盆のときも) 東京のことが好きで,妙に人が少なくてのびのびと息を吸える電車や街を,日々を惜しむように楽しんでいたのだった.仕事場にも人がいなくなり,リラックスして仕事ができるから,ふだんの作業とはちょっと違うことを,「年末年始の秘密プロジェクト」と名付けたりして,ひとり静かにやっていたのだった.

今年の年末年始は,もしかしたら独り立ちしてからはじめて,東京から遠く離れて過ごすことになった.日本の12月後半は,クリスマスやお正月の楽しい気配と,年末の仕事納めの忙しさと,忘年会やら何やらの浮ついた気分とがごっちゃになって,てんやわんやのゴミゴミした忙しさがある.けれど,こちらはクリスマス休暇と重なって人びとが大きな休みをとったり自分の国に帰ったりするので,12月の後半はほとんど開店休業状態になる.日本にいないから,この機会に仕事を詰め込もうと思っても限度がある.

そんなわけで,相当ひさしぶりに,なんだかゆったりと落ち着いた年末を過ごしている.Rとふたり,「廃墟」をのぞむ部屋で,原稿を書いたりインターネットをしたり,お茶を飲んでおしゃべりしたり,オーブンで料理を作ってみたり.そのとき楽しいだけで後にはなにも残らない忘年会なんかもないし,クリスマスや年末年始の商業主義的な喧騒からも遠いところにいる.

悪くない,と思う.

フェリーの歌

フェリーのなかでかかっていたBGMの音が大きくなって,ちょっとうるさいなと思っていた.だけれどすぐに気がつく.スピーカーから流れる既製品の音楽とは違う雰囲気.向こうのほうに目をやると,どうやらすこしへこんだブースのところで,生演奏が始まっているらしい

紫色のやわらかい光がラウンジに漏れ出ていて,のびやかな女の人の声が響いている.座っているソファーから直接は見えないけれど,あそこで歌っている.目の前のソファーの乗客たちは,そのブースを眺めている.1-2曲終わって,「Englishman in New York」がはじまる.好きな歌.途中から思わず立ち上がって,そちらのほうを見に行ってしまう.

ときどき声が交じるなと思っていたけれど,たしかに,スキンヘッドの男の人が横でギターをひいていた.女の人は,歌いながら電子ピアノを気持ちよさそうに弾く.乗客の大部分は無関心なようでいて,でもしっかりそちらに注目していることが雰囲気でよくわかる.なんというか,ふたりは本当に楽しそうに歌ったり演奏したりしていて,とってもあたたかい空気が音といっしょに広がっていく.

ブースの前を通る人はリズムをとりながら足を運び,ときには親指を立てて満足な気持を表現したりする.「イパネマの娘」の最中には,3歳と5歳くらいの兄妹が楽しそうに踊りはじめて,両親がそれを見守っている.最後の「イエスタデイ」では,ビールを飲んでいたおじさんがつぶやくように「♪yesterday」と歌にあわせて口ずさむ.演奏が終わると,そこかしこでぽつりぽつりと静かに拍手が響く.

演奏の合間には静寂が訪れ,バーのカウンターに吊り下げられたたくさんのシャンパングラスが船の揺れに合わせてシャラシャラと音を立てているのが聞こえるようになる.最後の演奏が終わって船内のBGMがふたたび始まると,なんだか幸せな夢が覚めてしまったような気がした.

クリスマス

巨大なスーパーにRと一緒に乗り込んだ.しかし,ふたりで乗り込んでも,巨大なことに変わりはなかった.日用品や調味料,クリスマスの食材など.そのほかのお店をいくつかひやかして,気づいたらどっと疲れて,1時間半も経っていた.最後に,ちょっと気になったお店に行って,小皿をふたつとハーブティーをひと箱.歩いてその巨大なショッピングセンターを後にする.

その23日の夜は,たっぷりハーブをすりこんだ豚バラ肉をジャガイモと一緒にオーブンで焼いて,24日はラザニアを焼いて.クリスマスのビールやらワインもいっしょに.日中はどこにも行かず,これまでの疲れをしっかり溶かすように,猫のいるリビングでお仕事をしていた.

静かで暖かくて,ゆったりしたクリスマスだった.