よるのおわり

日々を愛でる

手袋の気分

冬に,とても寒い国に行くので,その準備をする必要があった.昨年その国に行ったときには,日本で使っている薄めの手袋が,たった1枚の布でしかないことを,冷たすぎて痛くなった指とともにまざまざと気づかされた.

先日,アウトドアショップで良さそうな手袋をみつけた.分厚い綿が入っていて,小さくたためば旅行かばんにもコンパクトに収納できそう.型落ち品のためすこし安くなっている.しかし,不幸なことに,その日はとても暖かい日だった.

今の自分の生活している周りが暖かいと,凍るような寒さの脅威があまり迫ってこない.その日は,ぽかぽかした陽気とともに,分厚い手袋はまた今度で良いか,と店をあとにしてきてしまったのだった.(そして翌日は木枯らしの吹く寒い日で,みつけた手袋を買わなかったことを後悔した)

正しい11月の終わりの雨の日曜

1日中雨の予報が出ていて,自転車は端から諦めて始発で大学に向かった.秋の終わりの冷たい雨.朝はまだぬるいけれど,日中だんだん気温が下がっていく.

日曜の居室にひとり.午後には気温がさらに下がり,身体が暑さに慣れてしまっていたせいか,暖房の温度をいくら高くしても,窓ガラスから忍び込む冷気が足先をあっという間に冷やしていく.そして,論文を読んでいると襲ってくる眠気.
日曜だし,これはもう仕方ないと諦めて,ベッドに寝転んで布団をかぶり目を閉じる.なにか夢を見ていた.隣の部屋に人の気配がして目が覚める.2時間経っている.長く眠ってしまった昼寝に特有の,ぼんやりした頭を持て余しながら,ふたたび机に向かう.

外が暗くなりきった頃,帰ることにする.昼寝のせいか,気持ちに余力があって,このまま電車で帰るのもなんだかつまらないような気がする.そこで,行きたいところまで歩いてみることにする.
パン屋さんに入って食パンの6枚切りを買う.リカーショップで,ちょっと飲みたい気分になっていたジンを買う.スーパーに寄って夕飯の買い物をして,ついでにミカンも買い物かごに放り込む.
車や人で賑やかな通りを一本外れると,しーんとした裏通りが広がっていて,蔦がからまった年季の入ったアパートとか,古そうな大学付属の体育館とか,重心の低いどっしりした大きな家とか,そういうものが現れてきた.

2駅歩いて,お腹が空いてきたので電車に乗った.バックパックからは,さっき買った長ネギがとびだしている.正しく11月の終わりの雨の日曜らしい1日だった.

アルコール

蒸し暑い森のなかの昼過ぎ,虫除けを顔に塗り,さて午後もがんばろうと思ったとき,揮発したエタノールの強い匂いが鼻に達した.そのとき,強いお酒を少しやりたくなった.気つけや強壮にお酒を飲むというのは,もしかしたらこういうことなのかもしれないと,そんなことを思った.

黄金

秋の落ち着かない雰囲気が好きではない.温度や光が,どこかぼんやりたそがれていて,夏や冬のような安定した空気に包まれている安心感がない.秋晴れの太陽の光も,そのあまりの疵のなさゆえに,よそよそしい気持ちになる.春は,ゆっくりだが着実に力強く活き活きと成長していくのに対して,秋は,そもそものはじめから,終わりに向かって消えていくだけのような気がしてしまう.

秋から逃げるようにして旅立った熱帯の国から帰ってきたその日,もう晩秋と言えそうな大学の廊下から外を見たとき,しかし,ふと気づいた.秋晴れの真っ青な空の下に,イチョウの葉が黄金色に燃えている.一瞬,ガラスに太陽の光が反射しているのかと勘違いするほどに輝いていた.イチョウの葉を経た光は,廊下の白壁をあざやかなオレンジ色に染めて,まるで,血の躍動する夕陽が射し込んでいるかのように.

それを見たとき,秋も,まあ悪いものではないかもしれないと,そんなことを思ったのだった.

「半」という概念がおもしろい.

マレーシア語では"setengah"という言葉がそれに該当して,たとえば"jam tuju setengah"は「7時半」,"dua ringgit setengah"は「2.5リンギット」ということになる.時間やお金のという異なった単位においても,「半」という概念が同じ言葉で表されている.

日本語にも「半」があって,2時半,スプーン3杯半,1個半,…などなど.いろいろ異なる単位であるにもかかわらず,「半」という共通の言葉が使われている.
ほかの人からしたら何がおもしろいのかわからないかもしれないけれど,私はそのことに気づいたとき,なんだかよくわからない達成感と満足感を得た.

母国語においては,基本的な言葉ほど,言葉と共に在ることに慣れてしまって,おもしろさを感じ取りにくくなっているように思う.外国語を習うと,そうした「当たり前」のおもしろさにふと行き当たることがある.