よるのおわり

日々を愛でる

2018年に読んでおもしろかった本

2018年はそこそこ本を読めたような気がする。数えてみたら60-70冊くらい。でもまあ、まだまだ時間は確保できていなくて、積ん読は積み上がっていくばかりなのだけれど…
そのなかで特におもしろかったものをあげておく。選に漏れたけれど、ほかにも、『いのまま』『おいしいロシア』『パリ・ロンドン放浪記』『はじめての沖縄』なども非常に良かったのだった。


本多勝一 『カナダ・エスキモー』
なにかの本で読んだとおり、このルポルタージュそれ自体が、カナダの極北先住民に対しての立派な民族誌になっている。現代日本とはまったく環境の異なる場所に暮らす人びとの記述に、本当に頭をがーんとやられたような衝撃を受ける。時間という感覚も、さらには日にちという感覚すらなく、もしそうしたものがあるとすれば、昼の長い時期と夜の長い時期というふたつの区別だけ。肌をさらしていれば5分間で凍傷になるような大地に、数百km四方を数家族で暮らし、狩猟した海獣(息の根を止めるとすぐに凍りはじめる!)の「生肉」で暮らす人びと。近現代の文明がその暮らしを根こそぎ破壊していくさまも、暗示的に語られている。リビングに居ながらにして極限の探検・冒険ができるような、そんな良書。


G・ガルシア=マルケス (野谷文昭 訳) 『予告された殺人の記録
これぞ小説を読む楽しみ! と思った。小説の最初の一文で (本当に1文目で!)「予告」された殺人に向けて、綿密に練られたストーリーが過去と現在を往復しながら、収束していく。クライマックスが近づくにつれて、お祭り騒ぎが拡大していくように、盛り上がりはどんどん大きくなっていく。事件そのものは陰惨であるにもかかわらず、どこかコミカルな登場人物たちや、不思議に危機感に欠ける間延びした雰囲気などが、ガルシア=マルケスらしいユニークな印象を形作っている。
それと、文庫版のカバーの絵もすごくいい。仮面や死者や狂人を連想させる不気味なたくさんの顔に囲まれて、ひげをはやし帽子をかぶった風采の良い男性だけが、人間の顔をして、生気のある目でこちらを見ている。彼はサンティアゴだろうか、それともバヤルドだろうか。

「おれは殺されたんだよ、ウェネ」彼はそう答えた。


サマセット・モーム (金原瑞人 訳) 『月と六ペンス』
最高。もうそれ以外言いようがない。ゴーギャンをモチーフにしながらも、史実とはまったく異なる物語がテンポよく進んでいく。恐ろしいまでに鬼気迫るストリックランドや、どこまでも悲惨な好人物であるストルーヴェの造形と性格の描写、そして根底に流れる創作の苦しみ、そういういろいろが、わかりやすすぎるくらいに大迫力でせまってくる。名作が名作と言われるにはそれだけの理由があると十分に納得させられる作品だった。

「絵だよ。ほれぼれするような出来だった。触ることもできなかった。怖かった」


マイケル・オンダーチェ (土屋政雄訳) 『イギリス人の患者』
静かでしめやかで、すてきなイメージに満ちた不思議な物語。すごく良かった。映画ではクリフトン夫人(キャサリン)と「患者」の恋に焦点があたっていたみたいだけれど、私はハナとキップの恋のほうが好きだった。カラヴァッジョおじさんの言動や過去の回想がすてきなアクセントを添えて、戦時下というかなり異常な、なにかはりつめたような状態で、いつ壊れてしまうのだろう、というはらはらする予感を感じさせながら、恋愛のおだやかさが描写されていく。

「朝になったら、また耳をつないでやらなくちゃ」男は女の肩に左手をのせた。


シオドーラ・クローバー (行方昭夫 訳) 『イシ: 北米最後の野生インディアン』
クローバー教授の妻が書いた記録。解説にもあるけど、事実を淡々と語って、感傷的/感情的になりすぎないところ、また先住民を軽んじる感じがまったくないだけでなく、白人を過剰に貶めたりもしないところ、非常に好感が持てる。そして夫婦の娘であるアーシュラ・K・ル=グウィンが、新版の序文を寄せている。そのあたりも非常に興味深い。
内容に関しては、アメリカ先住民迫害の凄惨な歴史はもちろんのこと、石器づくりや狩猟について、「生きた記録」から得られた情報が満載されているのも良い。民族考古学の興奮を読みながら体感しているような気になってくる。

ゆっくり

朝、なぜか起きられたので、近所の浜辺に朝日を見に行った。海岸線に沿って人がたくさん待機しており、港ではエイサーまでやっていた。風は吹いていたけれど、そこまで寒くはない。空は紅くなったけれど、「初日の出」そのものは見られなかった。(気配はあふれでていた)

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朝にはお雑煮、昼には春菊のパスタを食べて、午後から近所の公園に散歩に出かけた。行きたいと思っていながら、2年越しにはじめて訪れた。広い土地が広がっていた。

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1時間以上歩き回って、コンビニで濃厚なアイスクリームをおやつに食べながら、帰ってきた。もう晩ごはんの時間で、色々としていたらもう寝る時間になっていた。

すべての時間が子供優先になってしまうので仕方ないのだけれど、こんなにゆっくり時間が過ぎた年末年始、いつぶりだろう。

2018年

2018年は、ちっともじっとしてない年だった。3月はじめまでは引き続き北の国におり、帰国後すぐに南の国へ。任務を遂行して、引っ越しをして、4月、環境が大きく変わる。5月にはまた違う北の国へ行き、GW中にもかかわらず真冬なみの寒さでみごと風邪をひく。6月にはまた違う南の国へ行き、任務を完了。今でも奇跡のように思える。8月は例年通り北の島に行き、その後また北の国へ帰国。9月は広島でお仕事、その後別な北の国へ。そのあいまに、ホームである南の島にちょくちょく滞在する。それで、5月にはやっと式をあげて (1年越しだ…)、11月には子供が産まれた。後期には、非常勤の授業のために、あちらとこちらを行ったり来たり。いやはや。

全体としては、いまだ先の見通しが立たない透明なトンネルのなかにいるような気分。行きたい方向は見えた。でもどうやってそちらに到達するのが最適解なのかがわからない (というかまあ、たぶんそんなものはない)。このままのやり方で突破を目指すか、まったく新たな角度からアプローチしてみるか。ただこれに関しては、時間が解決してくれそうな気もしている。ぼやぼやしていても、どっちにしたってタイムリミットはやってくるのだ。タイムリミットがやってきたら、嫌でも動かなければならない。

お仕事のほうは、去年まいた種をさらに育てるところで終わってしまった。これまでの成果をほそぼそと消費していくだけだった。けれど良いのだ。さらに新しい種もまいたし、2019年には刈り取りが始まるだろうと思う。

内的なものにせよ外的なものにせよ、大きな変化の波が起こりかけていて、とにかくこの波をさらに大きくしていきたいと思う。その波に打ち寄せられる先がどこになるかはわからないけれど、すくなくとも、ここではないどこかであることだけは確かだろう。

牛乳パック

家の牛乳がもうわずかとのことだったので、帰りがけにコンビニで1リットルパックのを買った。最近手首が酷使されているので、片手で持つと腱鞘炎になるかなという思いと、接地面積を少なくしてできるだけ温まらないようにしたいという思いを両方とも叶えるため、おなかの前で捧げ持つようにした。遺影を抱えているみたいになったので、それならままよと思い、パックの正面を前に向けてやった。おそらく弟と母親とともに、前を行く女子高生が振り返って、訝しげにこちらを見ていたので、知らんぷりをしてそのまま歩いた。

自転車で行く途中、道の反対側に、しゃがんでタバコを吸っている人がいて、やや目が合う。作業着を着ていて、このあたりは工場地帯だから、きっと休憩中なのだな。おつかれさまです。

視線をふと、もとに戻すと、左手の塀の上に白い煙が立ち上っていた。少し遅れて、タバコの匂いも届いてくる。塀の向こう側にも、休憩中の人がいるのだな。

 

暗くなって帰るとき、頭の上をモノレールが通り過ぎた。窓に寄りかかっている、マスクの女の人が見えた。あちらはこちらに気づいていない。左手の歩道に視線を移すと、歩いていた女子高生もモノレールを見上げていた。彼女にも、マスクの女の人は見えただろうか。