よるのおわり

日々を愛でる

余白をもっと

複数の仕事の充実した時期が重なったため、すこし気持ちの調子を崩していたようだった。Lが生まれてから慢性的な仕事時間不足に陥っていて、あれもこれも理想とは程遠い進行状況で、自由にできる時間が手に入ったらすこしでも仕事を進めたく思う。そうした気持ちがあることは確かに事実なのだけれど、その熱情にまかせて生活の可処分時間をすべからく研究活動に巻き込んでいくと、知らずのうちに息がつまっていき、精神が悲鳴をあげるようになっていく。私は自分のコンディションを把握するのがあまり得意でなく、知らずのうちに無理をしていることが多いため、そうした危険もけっこう進行して養生もなかなか難しくなっているような段階で、ふと自分が溺れているのに気づくことになる。
そうならないためにも、生活には余白が必要なのだった。仕事がなかなか進まない気の抜けたスランプの時期というのは、今やっと理解したのだけれど、重要な余白の期間なのだ。そうではなくて意図的に小さな余白を作り出すこともできて、散歩に行ったり、街をぶらついて欲しかったものを探してみたり。息がつまってくると、焦りが出て、逆に自分を追い詰めるような方向でさらに息をつめるような選択をとりがちになる。そういうときにこそ意図的に余白を設けなければならない。余白を伴う何かをすることで、生活のなかに余白を引き込んでこなければならない。
余白というのは、しっかりした目的や意味を持たせずに何かをすることであるとも言える。即興的にすることも余白になり得るが、私の性格的に、その場で決めるよりは前々から計画して余白を作り出したほうがその効果は高いように思う。緊張を弱めるための余白という目的をもたせた余白は果たして余白と言えるのかとも思いつつ、ままならない自分をうまく舵取っていくために、ある程度の戦略は必要になるのだった。