よるのおわり

日々を愛でる

おむつの子供が温泉から排除される話

八丈島で調査をしていた。ある日の調査が終わったあと、観光地としても有名な「みはらしの湯」にやってきた。10ヶ月になる子供をつれて行ったのだけれど、施設に入るなり、受付にいた年配の女性に「おむつの外れていない子供はお風呂に入れません」と言われる。浴槽に入れなければいいんだな、と思い、「わかりました」と言って料金を払い脱衣場に移動して着替えようとすると、先ほどの女性が今度は脱衣場のなかにガラッと顔を出し、先ほどと同じ注意を繰り返した。
「浴槽に入れなければ良いんですよね?」と聞くと、「お風呂場自体に入ってはダメです」と、取りつくしまもない。ふーん、そう……と思いつつ、湯上がり後の人たちがくつろぐ共同スペースにやってくる。ふと思いついて、子供を抱っこして受付に行き、「では私が温泉に入っているあいだに、あなた方が子供の面倒を見ていただけるのでしょうか?」と訊くと、受付を担当していたシルバー人材センターの人びとはきょとんとし、すこしあとに意味を理解したらしく、「そういうのは同行した大人が責任を持つことです」と返された。子連れの人がひとりで来た場合はどうするんだろう……門前払いをくらって、自動車で15分くらいかかるこの山道をまた引き返すのかな……と思ったけれど、訊いても答えはわかりきっているような気がして、何も言わずにまた共同スペースにひき返した。
悲しくて悔しい気持ちがぐるぐると心をかけめぐる。同行者たちは「かわりに世話しててあげようか?」と言ってくれたけれど、私が温泉に入れても子供は入れないことに変わりはないと思い、ありがたく辞退して温泉には入らずに「みはらしの湯」をあとにした。

以前には、八丈島の温泉にはこうした規則はなかったそうなのだけれど、おそらくどこかのタイミングで誰かから苦情が入り、排泄コントロールができないとみなされる赤ちゃんが温泉から排除されたのだろうと思う。そういう気持ちもわからないでもないけれど、何にしても、社会のなかで明確に自分 (にともなう子供) が排除された経験をしたのはこのときが初めてだったので、大いにとまどった。もし子連れでなければ、八丈島の温泉に排除のシステムがあることに気づきもしなかっただろうと思う。自分がいざ当事者になるまでは気づかない排除のシステムがすぐそこにあったことに、驚き、恐ろしさを感じた。
もしかしたら、たぶん私も、意図的にか無意識にかを問わず、目の前の短期的な快・不快の感情をもとに、特定の属性をもった他者の排除につながる言動をとっているかもしれない。たとえば浴槽でうんちをした赤ちゃんを見て、その保護者に直接苦情を言うのではなく、地方自治体に苦情を述べ立てるようなことによって、自身の憤った感情の溜飲を下げることができるだけでなく、排除につながるシステムが現れる手助けをすることができる。
しかし、そうした非寛容な社会では、誰であっても、表面的な属性がすこし変わっただけで、容易に、排除される対象に変わり得てしまう。マイノリティを排除したマジョリティのなかには新たなマイノリティが生じ、首輪を外された排除はとどまるところを知らずに浸透していく。

温泉に入れなかったことを嘆いているのではなくて (そんな温泉には入りたくもない)、そうしたシステムを生み出してしまう現代日本社会のありようが、ちょっと恐ろしくなったのだった。寝そべることのできないベンチとか、タトゥーの人は入れない銭湯とか、「外国人」の家探しの困難さだとか、今現在、自分は排除の対象になっていないためあまり気づかないような排除のシステムが、日本社会に浸透し根深く残っていることは理解している。けれど、注意して意図的にそれを見つけ出し、浸透を防いでいかないと、きっと、誰しも、排除のシステムに気づいたときには自分が排除される対象になってしまっていた、ということになるのではないかと思ったりしたのだった。