よるのおわり

日々を愛でる

リンゴ畑の10年

ここ10年間で読んだ本のなかで一番はなんだろう……ということを考えていた。本そのものの評価で言うと、まったく、ひとつに決められるわけもないのだけれど、いちばん大事な本というとすぐに決められる。それについて書いてみようかなと思う。

それは、エリナー・ファージョンの『リンゴ畑のマーティン・ピピン』。読んだのは2014年の晩冬のことで、当時思いを寄せていた人から勧められたのだった。だんだんお互いのことを知るようになってきていた時期で、どんなところが好きで、なにを思ってわたしにこの本を勧めてくれたのだろうか……と、まるで恋文でも読むような気持ちでページをめくっていった。


=====以下 (いちおう) ネタバレ注意=====


海にも近いイングランドの緑豊かな丘陵地帯で、恋人ロビンと引き裂かれた農場主の娘ジリアンがリンゴの果樹園のなかにもう何ヶ月も閉じ込められている。その鍵は男嫌いの6人の娘が持ち、周りを常に監視している。ジリアンを想ってめそめそ泣いてばかりいるロビンのために、旅の詩人マーティン・ピピンはひと肌脱ぐことに決め、果樹園に乗り込んでいく。ところが、6人の娘 (この農園で乳搾りをしていた) も、ジリアンを閉じ込めた農場主の父親も、退屈だったり、乳搾りをする娘の労働力がなくなって困っていたりして、本当はジリアンに早く立ち直って出てきてほしい様子。マーティンは、これまで誰も聞いたことのないような恋話をジリアンに聞かせることで、恋人を想う心に火をつけて、自分から外に出てこさせようというアイデアを思いつき、6人の娘たちとジリアンに、6晩つづけて恋物語を始める……

と、このように6つの恋物語がはじまり、その間と前後に、マーティンと6人の娘や農場主とのやりとりが挟まる。実は、6人の娘たちも想う相手がおり、マーティンの話を聞いてはひとりずつ鍵を差し出し、最後の晩にはジリアンにつづいてリンゴ畑を飛び出していく。あとに残されたマーティンは……と、その後の顛末が書かれて終わる。


さて、こうして語られる6つの恋物語が本書の核となっているのだけれど、どれもすてきで愛おしい。日本語訳は岩波少年文庫という子供向けの出版で出ているけれど、実はこの物語は、第一次大戦中に戦地に赴いた30歳の恋人に宛てて書かれたもので、大人が読んでも、というより大人が読んでこそ、その味わい深さが実感をともなって理解されるのではないかなと思う。そして、再読してみて、私のほうでも6年前と思うところが変わっていたので、ちょっと書いてみたいと思う。

  • 王さまの納屋:再読した今はこれがいちばん良いと思った。屈託なくて素直な主人公の性格にあこがれる。ちょっと神秘的な夜中の山や泉のシーンも大好き。
  • 若ジェラード:6年前に読んだときはこれがいちばん好きだった記憶がある。春のうきうきした気分と、めったに会えない女の人を想う辛抱と苦しみと喜びと、クライマックスに向けて一気に盛り上がっていく感じ。でも今読んでみると、ちょっと力が入りすぎているかなとも思う。命をかけて打ち込んでいたようなあの頃の心持ちと、共鳴していたんだと思う。
  • 夢の水車場:しぶい。6年前はよくわからないで読み飛ばしていたような気がする。けれど今読むと、女と男の心のうちがよくわかるような気がする。この6年のあいだに、年を取というることを理解し、自身の作り上げてきた居心地の良い世界を崩す必要性を知ったのかな。
  • オープン・ウィンキンズ:6年前は複雑な論理構造に惑わされて、枝葉の部分 (自己否定心や嫉妬) に興味を持っていたけれど、今回は、核の部分 (汲めども尽きぬ愛) を理解することができたように思う。6人の娘のうちのひとりとマーティンとのやり取りは、この恋物語のときのがいちばん好きだと思った。
  • 誇り高きロザリンドと雄ジカ王:物語としてよくできていると思う。でもそれは同時に、すこしの強引さがあるということでもある。男のほうがなんでもコントロールするところが気になったけれど、最後のオチのところはすばらしい。
  • とらわれの王女:これについては語るほどのところがない。その前後の娘たちとのやりとりが好き。

ついでに、再読してみて思ったのは、そのジェンダー観のフラットさだった。第一次世界大戦の頃に書かれた物語だから多少の古臭さはあるものの。物語のなかでも、現実世界でも、女はただ受け容れるだけ・仕組まれるだけの存在ではなく、男は弱さや情けなさを持ち合わせる。女が男の裏をかくことも、やりこめることもあるし、男が女に甘えたり、助けられることもある。そういうバランスの良さが、安心して読める雰囲気につながっているような気がした。

この男が、このむすめのなかに何を見、あのむすめが、あの男のなかに何を見るかは、世間のものにはどうしてもわからず、いくら考えても想像もできないというのもおなじことだよ。世間の者には、なぜふたりが恋におちたのか、考えることもできない。しかし、ふたりには、ふたりのわけがある、かれらの美しい秘密が。その秘密は、ただひとりの者の耳にしかとどかない。そして、かれらが、相手の中に見るものは、かれらが、じぶんの中にもっているもので、それは真実なのだ。ただ恋人たちは、時がくるまで、それを、じぶんたちの胸のなかにおさめておく。

6年前にこの本を勧めてくれた人は、今はパートナーとなり、ともに人生を歩んでいる。……さて、Rどの、そなたはこの本を読んで何を思ったかな?