よるのおわり

日々を愛でる

ままならない

先日、これはいけるだろうと思い通った気になっていた申請が味気ない紙切れ一枚で落とされ、とたんに悔しい気持ちになる。もうひとつの大きな申請も落ちていたことを思い出し、さらにどんよりした気持ちになる。そんなときにちょうど以下のようなtweetを目にし、そうだ、がんばらなければ、と思い直す。

 

申請に大きな穴があることは自覚しており、それは数年前から着手しようと思いつつ後回しになっていたことだった。これをちょうどよい機会と捉え直し、悔しさを忙しさで紛らわせる意味合いも込めて、次の機会に間に合わせるべく、やや無謀な計画を立てて着手しはじめた。文献調査を始めると、2017年には見落としていたものがたくさんみつかり、この5年のあいだに新たに出版されたものもけっこう出てきた。このテーマからはしばらく離れていたのだけれど、改めて着手してみると、特に、これまでフォローの甘かった人文系の側面が非常におもしろい。想定外に長かったイースター休暇をなんとかやりくりしつつ、やっと、ある程度出口が見えてきた。あともう少し。(Lが生まれてから、長い休暇は思い切り仕事に打ち込める自由時間から本当の「休暇」と子育ての疲労との期間に変わった)

さて、こんなにイースター休暇が長いものとは知らず、実は休暇だった日にもお互いに会議などが入っている。そのひとつに、こちらの受け入れ教員との個人面談があった。なんでも大学の全構成員に義務付けられているみたいで、どういう話ができるだろうか…とドキドキしながら臨む。
1時間半以上話をして、とても有意義で勇気づけられる内容となった。やはり子育て中で圧倒的に時間が足りないことを可視化でき、また、知らず知らずのうちに弱気になって内向きになっていた自分の気持ちにも気づくことができた。自分がここに来ている、来られていることの目的を、改めてきちんと認識できた。なんというか、お互いにネイティブの言語ではない英語で話をするから、ここまで実りある話ができたのかもという気もする。日本語で話していたら、自分で話しながら自分の痛いところを巧妙に避けて、表面的な当たり障りのない内容で終わっていたような気がする。日本語に比べると不自由な言語で話している分、直接的にわかりやすく自分の気持ちや内面を伝える必要がある。また、英語で話すということが自分を守る一種のバリアになって、自分の痛いところを気にせず口に出せたようにも思う。

日常生活では、ささいなことにいらいらしており、穏やかに暮らせればいちばんだと思っているのだけれど。どうしたらいいのか。日本のニュースは見るたびに嫌気がさして、どんな旧時代的な人権感覚のない非効率ないろいろが相変わらず続いているのか、と思う。長くて暗い冬が終わり、日がどんどん長くなっていて(21時に暗くなり5時に明るくなる)、こちらの冬はけっこう好きだと自分では思っていたのだけれど、同時に、太陽を見てうきうきした気持ちになっている自分も発見する。余裕がなさすぎて自分自身のことも自分できちんと理解できていなかったのかもしれない。なんともまあ、ままならない。